足るを「しらない」【心技体を制する。「心」】
皆さんこんにちは、江南です。
皆さんも聞いたことがあるかと思いますが、「足るを知る」、いい言葉ですよね。
自分の中に、自分の大きさを超える「欲」が出てきたとき、自分自身に「足るを知れ」と言い聞かせるのです。
しかし、私はこの言葉使うことは気をつけたほうが良いと考えています。
「足るを知る」怖さ、もったいなさ
今ある環境でも、良いこと素晴らしいことはたくさんあるじゃないかと。
みんなこれくらいの苦しみは経験している。自分だけ逃れようなんて、卑しいことだと。
自分は恵まれている、世界の貧しい国の子供達を見れば、日本という国に生まれただけで、大変幸運なことだと。
「足るを知る」という言葉を、心に思い描いただけで、こんなことが浮かんできますよね。
でも、この心に浮かんできた言葉には、欠けているものがあります。
それは、自分の基準より上を見る目線です。
今ある環境でも、良いこと素晴らしいことはたくさんあるじゃないか
→でも環境を変えれば、もっと良いこと素晴らしいことがあるかもしれません。
みんなこれくらいの苦しみは経験している。自分だけ逃れようなんて、卑しいことだ
→しかし受けなくていい苦しみは受けないほうが、良いのでは。
自分は恵まれている、世界の貧しい国の子供達を見れば、日本という国に生まれただけで、大変幸運なことだ。
→だったら、その大変幸福なアドバンテージを活かして、世界の貧しい国の子供達を救えと。
「足るを知る」大変素晴らしい言葉だと思います。しかし、一歩間違うと「思考停止」やともすれば「負け犬の思考」になりかねません。
出典は『老子』
「足るを知る」の出典は『老子』だそうです。
足るを知る―「知足」は『老子』の文章の中にいくつか出てきます。
〈『老子』第四十四章〉
知足不辱、知止不殆、可以長久。
(名誉や財産に)とらわれずに満足する事を知れば屈辱などとは無縁になり、ほどほどを心得ていれば自らを危険にさらす事も無い。この様にして安らかに暮らす方が良い。
やっぱり、いい言葉です。確かに「欲」を突き詰めれば、その先にあるのは破滅だけ、なんだかマスター・ヨーダが言ってきそうな言葉ですね。
しかし、気をつけていただきたいのは、マスター・ヨーダも老子も、この言葉の発する先の相手は、力を「持っている」人です。
老子の思想は、往々にして弱者を擁護し、敗北者を慰める趣旨と考えられている。しかし、それはまったくの誤解であって、むしろ強者、あるいは強者たらんとする人に対する訓戒を第一義とするものである
何か言いたいのか
基本的に私たちは、他国に侵攻しようとする列強諸国ではありませんし、フォースの力を持て余したアナキン・スカイウォーカーでもありません。
まだまだ未熟で、成長の過程にあると考えています。
それであれば、あまり自分にストッパーを掛けずに、あえて言えば「欲深く」、自分の良いと思うことを突き進めば良いのではないかという、そんな戯れ言です。